学会情報

中国史史料研究会 会報第9号:試し読み

表紙は『大義福禄寿暦書』の人字図。


大野裕司「術数学へのいざない 第3回」

前号までは、術数学の魅力を伝えるため、日本語で読めるものを中心に近年の研究成果を紹介してきた。これは数多くある研究の中で、あくまで筆者が面白いと思ってきたものの紹介で、そういう主観的な方法でしか学問の魅力は伝えられないのでは、と個人的には思っている。とはいえそれではまったく客観的でないではないか、という批判も免れまい。そこで本稿では、著名な研究が、「術数」(数術)をどのように捉えているか、研究者ごとの術数観を見ていきたい。

ただし、宋会群『中国術数文化史』(河南大学出版社、1999)がいうように「術数は一個の歴史的概念であって、二千年来の歴史発展の中で術数(あるいは数術)の内包・外延およびその主導理論はどれも大変化を生じた」(13頁)。宋氏はその変化として「名義の変化」「内容の変化」「術数理論の重点の変化」「作用目的の変化」を挙げる。このように移り変わってきたものであるから、本稿の目的は紹介する中のどれかの術数観あるいは術数定義が正しい・正しくないことを決めることではない。術数の多様性を感じてもらうのが目的である。では、研究者あるいは研究が軸足を置く時代ごとに、時代順に見ていきたい。ただし、限られた紙幅では各論考を要約することも難しいため、読者においてはできれば本文にも当たられることを願う。……


亀田俊和「亀田俊和の台湾通信 第10回」

8月1日、遂に亀山島へ実際に行く日がやってきた。

今回は、4年生になったばかりの女子学生3人が同行してくれることになった。彼女らも独自に亀山島の企画を知り、私について行きたいと志望してくれた。そこで前回登場した卒業生に頼んで、手続き等をしてもらった。私と違って、彼女たちは通常の観光客と同様に有料で島に行くことになる。ただ、「亀」の名がつく者の知り合いということで、「亀友」とか呼ばれていた。

当日は、前回の記者会見よりもさらに1時間早く、午前6時半の台北駅発の電車で行くことになった。ここまで早いと最寄りの地下鉄の駅はまだ閉鎖しているので、隣の駅まで数百メートルを歩いて行かなければならなかった。真夏の台湾で、早朝なのにもう大量の汗が流れてきた。前回渡された糞ださいもとい個性的なTシャツをまた着てくるように言われており、着替えるのが面倒だったので最初から着て行った。これまた超絶恥ずかしかった。…………


佐藤信弥「中国時代劇の世界 第10回『ムーラン』に求められた勇気」

新型コロナの感染拡大により公開が延期されていたディズニーの実写版『ムーラン』だが、2020年9月4日にディズニープラスにて全世界で配信が開始され、9月11日には中国で劇場公開が開始された。しかしその評価は芳しいものではない。中国でも厳しい意見・感想が寄せられている。

10月7日にAmazonなど他の媒体でも配信が開始されたので、筆者も視聴してみたが、オリエンタリズムに満ちた作品という印象を受けた。すなわち作中で描かれているのは、欧米人が頭の中でイメージする古代中国世界であり、中国人が違和感を抱きそうなものなのである。

映像面では、ムーランとその家族は、舞台となる北方には存在しない福建の土楼のような建物の中で暮らし、女性たちは唐代美人か平安美人を戯画化したような感じで、顔を化粧で白く塗りつける。ストーリー面では、忠・勇・真・孝といった徳目をやたらと強調する。中国人が作ったなら、ムーランの持つ剣や道具に「忠勇真」「孝」といった文字を刻み込むのではなく、もっと自然な形で織り込むだろう。

そしてムーランと敵対勢力である柔然との関係が、今時珍しいほどの勧善懲悪で貫かれているのが気になった。柔然とは、5~6世紀にモンゴル高原を支配した騎馬遊牧民の勢力であり、北魏と対立した。娘が男装して父に代わって従軍するというムーランすなわち花木蘭の伝説は、古くは『木蘭詩』(『木蘭辞』)に見える。この詩が北魏のものとされているので、その時代設定は北魏、あるいは広く北朝とされることが多い。また、清の褚人獲の小説『隋唐演義』では、花木蘭は隋末唐初の人物とされている。花木蘭が戦った相手は、これらの王朝と対立した柔然あるいは突厥とされることが多い。……


平林緑萌「前漢功臣伝抄 第9回 朱軫・林執─章邯をめぐる武将たち」

■秦最後の名将

『史記』は秦本紀や列伝において、多くの将軍たちの事績を記録する。

なかでも司馬錯や白起、王翦、蒙恬らは一般的にも知名度の高い名将といえるだろう。彼らの掉尾を飾るのが章邯である。

『史記』秦始皇本紀において、陳勝呉広の乱勃発後に突如として登場し、この大乱を半年で鎮圧すると、反秦勢力の次なる盟主となった項梁をも討った。

殷墟で項羽に降伏したのち、章邯は董翳・司馬欣とともに関中を三分し、二人が早々と劉邦に降伏するなか、都・廃丘に籠城して彭城の戦いののちまで独り抗戦を続けた。
その最期について、高祖本紀は以下のように記す。

引水灌廃丘、廃丘降、章邯自殺。

廃丘の水攻めと章邯の自殺が高祖本紀の歴史認識と言える。
しかし、漢王朝の公式記録を元にする功臣表は、少々異なった認識を示す。……


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