学会情報

中国史史料研究会 会報第26号:試し読み

表紙は聖ポール天主堂(中国・マカオ)。


朝山 明彦「京都の関羽さまを探して」

子供とかくれんぼをしている時、鬼のごく近くに隠れているのに案外見つけてもらえないことがあり、とても可笑しく思える。そんな時に関羽信仰研究を志した頃を思い出す。まだ、インターネットがない時代である。情報は紙の資料や口頭伝承に限られていた。

その中で、京都に『三国志』の関羽が祀られている、という記事を見つけた時は驚いた。今ではそんなに驚くべきことではないかもしれない。現代社会はSNSが発達し、日常の用件のみならず学術的な探索に於いても、情報の玉石混交があるとはいえ、目標への到達が格段に速く正確になっている。

しかし、今から二十五年前まではそうではなかった。ちょうどその頃、私は関羽信仰と出会い、それについての史料の探索を開始する中で、京都に関羽が祀られていることを知った。発端は1941年の日比野丈夫「関老爺」による。

①京都の東山の極楽寺、といっても知っている人は多くはあるまい、その代わり真如堂のことだといえば何のことだと頷づく人は少なくないだろう。その表門通りの北に四つ程寺が並んでいる。【…中略…】その中の何番目だったか忘れたが東北院という寺に関帝廟があるのだ。この寺は境内に萩が多く秋には美しい花が庭一面に吹くので萩の寺ともいわれるところだと思っている。

②たしか雍州府志であったと思うが、東北院に関白道長公の木像ありとして、この寺と道長との関係を随分長く説明してあったのを読んだことがある。【…中略…】しかし現に寺には関羽の像をまつった一棟の建物があって他に道長の像らしいものもないから、雍州府志の記事は必ず関帝に関白道長をこじつけたものに違いない。

③実は残念ながら私はまだその東北院の関帝像を拝見したことがないので、何ともいえないが、柱にかかった煤ぐろい関帝云々とあった表札からみて、きっとあの恐い顔をして黒い髯を垂らした関老爺であろうと思った。

とあって、日比野氏の説は次の三点である。①では京都で関羽を祀るのは真如堂近くの東北院で萩の寺と言われており、②では『雍州府志』が東北院と関白道長との関係を述べてそれを関帝にこじつけており、③では東北院に表札があって関老爺を祀っていることを推測しているという。

そこで、実際に『雍州府志』で東北院を調べると、次のように記載される。……


赤坂 恒明「苟且図存(かりそめに存を図らんとせば)―内モンゴル大学における一日本人モンゴル史研究者の教育活動―(一三)」

思いもかけぬ病院行きのため、連続講義「突厥語入門 ─ 從歴史学的視座」(19:00~20:40頃)は、3月27日の第二回が休講となってしまいましたが、翌28日から再開しました。初回と第二回の通訳は、早稲田での後輩、モンゴルフー講師にお願いいたしましたが、29日の第三回には御都合がつかず、神戸大学の萩原守先生の御門下留学生では最年長者のエルデニバヤル(額日登巴雅爾)副教授が通訳してくださいました。ともかく、日本留学経験のある教員の方々には迷惑をかけとおしです。

この連続講座は語学講座ではなく、テュルク諸語に関する歴史的概論です。参加者の中には、言語そのものを習得したいという受講生が少なくなく、そのような向きには全くの期待外れでしたが、数回の講座のみで言語を習得するというのは、土台、無理な話です。そもそも私はテュルク言語学の専門家でも何でもなく、ただ単に、歴史研究の対象となる人々にテュルク系言語使用者が多く、また、研究のためにテュルク語史料をも使う、というだけに過ぎません。しかし、テュルク語文献の歴史に関する一般常識的な知識を紹介するということで、三省堂が世界に誇る『言語学大辞典』の記載を踏まえ、私も執筆者の一人として加わっている『テュルクを知るための61章』(明石書店, 2016年8月)を活用し、さらに日本における近年の研究成果をもいくつか参照いたしました次第です。

どのような話をしたかということに御関心ある方々もいらっしゃるかと思われますので、とりあえず、配布資料の日本語復元の部分的抄出を次に掲げます。……


亀田 俊和「亀田俊和の台湾通信 第27回」

今回は、台湾のプロ野球について書いてみたい。

見かけどおりに、私はスポーツというものがとことん苦手である。特に球技はからきしダメだ。

たとえば小学生の頃、軟式野球をやっていたが、もちろんレギュラーなど最初からあきらめていて、お情けでスコアラーにしてもらった。準優勝か何かになって、メンバー全員に賞状とカップが贈呈されたが、私だけもらえなかった記憶がある。今思えばひどい仕打ちだが、別に悔しくもなければ怒りもしなかった。そのくらい下手だったのである。そのスコアのつけ方も、今はすっかり忘れてしまった。

そんな自分でするスポーツは嫌いな私と違って、台湾の人たちはスポーツが大好きである。台湾に来たばかりの頃、炎天下のグラウンドでランニングしているおじさんを見てびっくりしたのを覚えている。学生たちもバスケットやバレーをしている人が多い。ラグビーをしている女の子もいて、すごいと思った。

もちろん野球も盛んである。河原にたくさんの野球場があり、子どもも大人もいつも野球をしている。これも私からすれば、よく熱中症で倒れないものだと感心する。

やがて、ときどき散歩する(一応健康面を考えて、スマホに歩数計アプリを入れている)新北市新荘の野球場が富邦ガーディアンズというプロ野球チームのホームグラウンドであることに気づいた。いつか野球を観戦してみたいと思っていたところ、あるときたまたま試合開始前に通りがかったので、その場でチケットを購入して入場した。……


平林 緑萌「『史記』功臣表「前×年」小攷」

■序言

戦国期以降の出土文字史料が陸続と出現するようになった現代において、『史記』の研究はやや低調になったきらいがある。

しかしながら、それは『史記』が史料的価値を失ったことを意味するのではなく、あくまで相対化が進みつつあると理解すべきであろう。

つまり、われわれはよりよく『史記』を利用できるようになったということができよう。

『史記』が特に多くの独自史料を用いるのは戦国から漢初の部分である。

ただし、六国年表序において太史公は、挟書律(いわゆる「焚書」)によって六国の史書が失われ、「秦記」を中心として利用したことを告白している。

この「秦記」については諸説あるが、吉本道雅の「漢代以降の編纂物」であるという理解がもっとも説得的である。

シャヴァンヌの「かれらにとって歴史とは、巧みにつくられたモザイック細工で、 そこでは文書、記録が並列され、著者自身は多くのテクストのうちから選択することと、それらをつなぎ合わせる技術を除いては、干与しない性質のものであった。」(『司馬遷と史記』)という古い指摘は本質的である。『史記』において個々の記述はなんらかの史料に基づきつつも、それらが往々にして相互に矛盾をきたしていることはよく知られる。

つまるところ、出土史料によって得られた知見も活用して、再度『史記』の史料批判が必要となっている。

本稿では、かような見地から『史記』高祖功臣侯者年表(以下、功臣表)の紀年について若干の検討を行い、その原史料について新たな視点を提供せんと欲するものである。

■功臣表の基本的性質

功臣表は、高祖在位期間に列侯に封じられた者を年次順に配列した表である。……


 

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