学会情報

中国史史料研究会 会報第32号:試し読み

表紙は殷墟宗廟宮殿区(中国・河南省安陽市)。


赤坂 恒明「苟且図存(かりそめに存を図らんとせば)―内モンゴル大学における一日本人モンゴル史研究者の教育活動―(一九)」

2009年8月12日と8月21日、二度にわたり、呼和浩特市烏蘭察布西街32号の内蒙古文化大厦204室の内モンゴル文化音像出版社を訪問しました。

会話ができない私一人での訪問は無理ですので、8月12日には大正大学で学位を取得された、内モンゴル大学のミンガト・エルデニバートル副研究員(副教授)に、21日には同窓の先輩にあたるチョクト副研究員(当時。山川出版社刊『チンギス・カンの法』の著者)に、それぞれ同道をお願いしました。

現地へ行ってみますと、「内蒙古文化大厦」とは、内モンゴル図書館と同じ敷地内の東隣にある大きな建物でした。そこに入っているのは、内蒙古自治区文化庁(2018年11月から「内蒙古自治区文化和旅游庁」)で、正真正銘の官公庁です。およそ、単なる通りすがりの外国人が一人でフラリと立ち寄れるような施設ではなさそうです。

その建物の北西側から階段を東に上がった右手に建物の入口がありますが、その入り口の手前、階段を上がった真正面にて、毛沢東の直立像が訪問者を迎えます。

「内蒙古文化大厦」は官公庁の建物ですので、入館は極めて厳重、― ということは、ありませんでした。まったく意外なことです。さすがに現在では、予約手続きなしでの いきなりの入館は不可能ではないか、と思われますが、当時は随分とノンビリしていたものです。……


亀田俊和「亀田俊和の台湾通信 第32回」

日月潭旅行記の続き。

2日目は、早朝4時に起きた。「SUP」というものをするためである。SUPとは、ボードの上に立ったり座ったりして、パドルを漕いで移動するウォータースポーツである。

集合場所は、ホテルのすぐ前の湖畔であった。電動自転車もそうであるが、偶然とは言え本当に便利な場所にあって楽であった。私も含めて10人ちょっとの人数であった。

早速、コーチに乗り方を教えてもらった。電動自転車と同様、このSUPももちろん初体験である。私のような運動神経のない者はバランスを取れずに絶対に何度も水に落ちるだろうと思っていたが、やってみると意外に簡単で、結局落ちることは一度もなかった。

ひととおり教えてもらってから、湖の中へ出発した。ゆっくりと漕いだが、案外進むのが早くて、意外にすぐに湖の真ん中まで簡単に行けた。日の出を見るのも目的であったが、曇っていたので残念ながら見ることはできなかった。

そこには、ほかの湖畔からSUPに乗ってきた人たちもたくさんいた。全部で50人くらいはいたのではないかと思う。高校生か大学生らしい、若い人が多かった。彼らがわざと水の中に落ちるので、その波紋がこちらまで来てボードが揺れてけっこう大変だった。……


秋山陽一郎「紀元前中国の書写媒体:縑帛・紙」

中国古代の書籍は、現在の紙に印刷され扱いやすく製本されたものとは大きく異なる。紀元前中国の書籍を取り上げるにあたって、まずはこの時代の書籍の媒体を、それぞれの得手不得手と共に紹介しておきたい。本稿では書籍が書かれた汎用書写媒体のうち、「縑帛」と「紙」を取り上げる。

縑帛(絹布)

書写用の絹布のことを「縑帛」といい、縑帛に書かれた書籍のことを「帛書」、縑帛に描かれた絵画のことを「帛画」という。

『墨子』や『呂氏春秋』、『韓非子』などに登場する「竹帛に書す」「竹帛に著す」という句から、縑帛は遅くとも戦国晩期には汎用書写媒体としての地位を確立していたことが確実だが、それよりも前、縑帛がいつから書写媒体として利用され出したかは実のところ判っていない。文献中の記述としては『晏子』に、

昔、吾が先君桓公、管仲に孤と穀とを予え、其の県十七、之れを帛に著し、之れを申ぬるに策を以てす。(『晏子』外篇重而異者・景公称桓公之封管仲益晏子邑辞不受章)

とあるが、残念ながらこの記述を直ちに斉の桓公やその宰相管仲が生きた春秋時代の史料と鵜呑みにするわけにはいかない。もっともこの『晏子』の一節が、仮に戦国時代に桓公と管仲に仮託して書かれたものであったとしても、帛書の登場が春秋以前に遡る可能性が必ずしも否定されるわけでもない。

なお、現存最古の帛書は、1947年に湖南省長沙子弾庫にある戦国中晩期頃の楚墓(73長子M1)から盗掘され、現在アメリカ・ワシントンD.C.のアーサー・M・サックラー・ギャラリーに収蔵されている通称「子弾庫帛書」(「楚帛書」「楚繒書」とも)である。……


山田崇仁「河南省調査旅行記(その1)」

筆者はこの8月の4日間、河南省の鄭州並びに安陽に研究調査に赴いた。

本稿は、その紀行文になる。

■1日目

●セントレアから上海まで

今回、河南省調査に赴いたのは、私を始め、本会会長の大形徹氏・前会長の佐藤信弥氏・そして大形先生の教え子であるKさん(中国人/日本在住)の計4名である。筆者は、私用でセントレアからの出国となったが、他の方は関西国際空港からの出国であるため、上海浦東空港で合流し、鄭州に向かう段取りとなった。

筆者がセントレアを利用したのは初めてである(昔日の名古屋空港の利用経験は何度もある)。名古屋飯のコーナーや空港が見えるスーパー銭湯的な施設もあり、時間があれば色々利用したかったのだが、実際にはチェックインに1時間以上もかかったため諦めざるをえなかった。チェックイン後、保安検査から入国審査を経て制限エリアに入り、その辺りのベンチでしばらく休憩しようかと思ったら、すぐに搭乗手続きが始まったため、あわただしく機内に乗り込むことになった。

時間が遅れることもなく、無事離陸。しばらくすると機内食が出る。中国東方航空の利用だったが、機内食は「木曽の天然水」・「西尾抹茶プリン」といった、愛知+近隣関連の名産品を含む和中折衷の内容であり、おいしく食べることができた。……


 

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