- Home
- 中国史史料研究会 会報第33号:試し読み
学会情報
1.122025
中国史史料研究会 会報第33号:試し読み
表紙は福建土楼(中国・福建省)。
赤坂 恒明「苟且図存(かりそめに存を図らんとせば)―内モンゴル大学における一日本人モンゴル史研究者の教育活動―(二〇)」
フフホト訪問のたびに音源資料蒐集の目的で訪れておりました内モンゴル文化音像出版社ですが、その事務室が、内モンゴル大学の近く(マンドハイ公園の西側)から移転してしまいました。新しい事務室の所在地は、内モンゴル大学とフフホト空港(飛機場)とのほぼ中間地点の「如意開発区」で、番地を調べてみますと、「如意和大街」に面した「上海領海」の「賽罕区如意開発区四維路万銘公館」―― フフホト税関(呼和浩特海関)の西側 ―― 内にあり、内蒙古自治区新聞出版局と同じ場所となっております。ともかく、徒歩で行くには遠すぎる場所です。そのため、内モンゴル文化音像出版社への訪問は、一日がかりとまでは言わないまでも、半日ほどの予定とならざるを得なくなり、日程調整が必要となります。
ここでようやく話は2018年4月3日(火曜日)に戻ります。翌4月4日は連続講義が休みということで、この機会を逃すべからずと、いよいよ内モンゴル文化音像出版社訪問を決行することといたしました。実に、三年ぶりとなります。もちろん、一人で尋ねて行くのは無理です。そこで、連続講義の受講生にして4月1日に陰山方面へ同道した、内モンゴル大学の大学院生、Nさん(博士課程で社会言語学を専攻)に連絡を取りました。
Nさんは日本に留学経験があり、日本語はすこぶる堪能で、さらに、モンゴル民謡を含む伝統文化にも詳しいですので、同行者にはウッテツケです。……
亀田俊和「亀田俊和の台湾通信 第33回」
今回は、烏來というところに行った体験を書きたい。
烏來というのは、台北から南へ30キロほど行ったところにある温泉郷である。以前も書いた記憶があるが、台湾も日本並みに温泉がとても多い。ここに、昨年と今年の私の誕生日に旅行してきたのである。
まず去年はだいたいこんな感じであった。はじめに地下鉄で新店駅まで行き、そこからホテルの送迎バスに乗って現地に向かう。割とすぐに山道となり、1時間ほどで到着した。
烏來は、緑の山々に囲まれた風光明媚な場所であった。月並みな表現で恐縮だが、空気がおいしい。川の色がなぜかエメラルドのような緑色で、とても美しい。山にある川としては比較的大きく、水深が深そうである。
到着後、徒歩で温泉街へ行った。観光地らしく、飲食店やお土産物屋が立ち並び、日本では見たことのない食べ物がたくさん売られていた。日本語メニューが書かれているお店も多い。馬告という原住民がよく使う香料で作ったジュースを飲んだ。とてもおいしかった。
昼食に、原住民の料理を出すお店に入った。烏來は、原住民の泰雅族が住んでいる場所でもある。竹の筒に入れられたご飯やたけのこの炒め物が特においしかった。……
秋山陽一郎「紀元前中国の書写媒体:簡牘」
中国古代では、甲骨・青銅器・玉石・簡牘(竹木)・縑帛(絹布)・紙・陶器・漆器・貨幣・印章・封泥・瓦当などといった、さまざまな媒体が「文献」の書写に用いられた。
中でも、甲骨文・金文を主要史料とする殷・西周金文と、魯の年代記『春秋』を主要史料とする春秋時代、金文が短銘化して代わって簡帛書籍が台頭する戦国時代、簡牘文書が増加する秦漢時代、新媒体の紙が普及しだす魏晋時代と、文献史料と使用された書写媒体との間にはいくつかの画期があり、こうした画期が各時代の史料的な偏在や制約と密接に関わっている。そのあたりを念頭に置きつつ、本稿ではこのうち書籍が書かれた汎用書写媒体である「簡牘」を取り上げる。
簡牘(竹・木)
「簡牘」とは、竹や木で作られた書写用の札のことをいう。竹の札を「簡」あるいは「竹簡」といい、木の札を「牘」あるいは「木牘」という。時として「簡」を横幅の細い札、「牘」を横幅の広い札と定義することもあり、その場合は幅が広い竹の札を「竹牘」と呼ぶこともある。また日本古代史では書写媒体として竹が使用されず、木を主に使用していたこともあって、横幅に関係なく「木簡」という呼称が一般的に使用される。反対に紀元前中国の書籍では、『墨子』の「竹帛に書す」(明鬼下など)や『呂氏春秋』の「竹帛に著す」(情欲篇)、『韓非子』の「理を竹帛に寄す」(安危篇)という句が示すように、どちらかといえば竹簡の方がよく使用された。
後漢の王充(後27~97頃)によれば、竹簡は「竹を截ちて筒と為し、破りて以て牒と為す」(『論衡』量知篇)——すなわち竹を(均等な長さに)裁断して筒状にし、さらに(均等な横幅に)割って書写用の「牒」(小さな竹簡)にした。こうして出来た竹簡は、そのままでは腐食や虫食いに弱い。そこで竹簡を火で炙って脂分や水分を取り除く。今日でいう「乾式油抜き」である。後漢末の応劭によれば、この工程を陳・楚といった中南部では「汗(汗簡)」と、呉・越などの南東部では「殺(殺青)」と呼んだらしい。……
佐藤信弥「世界漢字学会第十届年会参加報告」
はじめに
2024年10月17日から10月21日にかけて、上海の華東師範大学で世界漢字学会第十届年会が開催され、筆者の所属する立命館大学白川静記念東洋文字研究所からは本会会長の大形徹、名和敏光、出野文莉、佐藤信弥の四名が参加した。世界漢字学会は2012年に設立され、韓国の慶星大学韓国漢字研究所内に事務局が置かれている。2013年以降、年1回各国の持ち回りで国際学術研討会を開催し、今回は記念すべき十回目の研討会である(学会の詳細については本誌第4号掲載の拙稿「世界漢字学会第7届年会参加報告」を参照)。今回のテーマは「漢字属性知識挖与人工智能工具的融合応用」である。
(一)報到
今回の学会は出発する前からトラブルが続出した。まず、行き帰りとも同じ便に載るはずだった大形、出野、佐藤の帰りの便が出発の2、3日前になって航空会社の都合で突然キャンセルされ、急遽別便を予約せざるを得なくなった。大形、出野の両氏は学会側で便を予約し、私は旅行会社で予約していた関係で、帰りの便は私だけ違う便となった。そして白川研から参加予定だった重信あゆみ氏が、8月に訪中した際のビザで今回も入国できると勘違いしていたことが発覚し、今回は学会に参加できなくなった。
少々予定時間をオーバーしつつも我々3人は上海浦東空港に到着。空港からは華東師範大学の大学院生が車で大学まで送ってくれることになった。学会の役員である大形、出野の両氏は、会期中は大学構内の逸夫楼(学術交流中心)に宿泊する一方で、一般参加者である筆者は大学の外のホテルに宿泊するはずであったが、学会会務組のご厚意で筆者も逸夫楼に宿泊できることになった。しかしこれがあとで裏目に出ることになる。……