学会情報

中国史史料研究会 会報第35号:試し読み

表紙は鄭州商城遺址博物館ホール展示の成湯像(中国・河南省鄭州市)。


赤坂 恒明「苟且図存(かりそめに存を図らんとせば)―内モンゴル大学における一日本人モンゴル史研究者の教育活動―(二二)」

2018年4月4日午後、内蒙古文化音像出版社の新しいオフィス(飛行場にかなり近い「賽罕区如意開発区四維路万銘公館」内)に行き、いろいろと音源資料を購入いたしました際に、思いもかけず、内蒙古文化音像出版社社長の臧志君先生と面識を得ました。先生との懇談の折、翌5日の午前10時に、内モンゴル大学に近い文化庁の方で再びお会することを約しました。
そこで、臧志君先生に関する基礎情報をネット上から調べてみましたところ、先生には肩書がきらめくように沢山おありで、ともかく相当の大立者でいらっしゃることが確認されました。

当時のネット情報から得られた基礎情報は、およそ次のとおりです……


亀田俊和「亀田俊和の台湾通信 第35回」

今年の1月14日から17日まで、3泊4日で金門島という島を旅行した。そこで今回は、その体験について2回に分けて書いてみたい。

金門島とは、台湾の西部にある小さな島である。と言っても台湾島からは100キロ以上離れている。しかし中国の厦門市からはわずか2キロほどしか離れていない。ほとんど中国大陸に囲まれており、晴れている日は発展した厦門の市街地がよく見える。行政的にも金門県は中華民国福建省に属しており、台湾省ではない。日本統治期においても金門は日本の植民地ではなかった(ただし、日中戦争時には日本に占領されていた)。

1949年、国共内戦で中国共産党軍がこの島に上陸したが、激戦の末に中国国民党軍が撃退した。国民党にとっては数少ない勝利であった。1958年にも共産党軍は金門島全域に激しい砲撃を加えたが耐え抜いた。これを「八二三砲戦」という。

そのため、金門島は現代の戦争の歴史に関する史跡が数多く残っている。また華僑の故郷としても有名で、清代末期以降多数の島民が東南アジアや日本に進出し、成功して財を成した者は故郷に豪邸を建てた。それらの邸宅も歴史的・文化的な価値が非常に高く、見どころとなっている。現在も南洋とのつながりが深い。今回、そうした近代の戦争や中華系の文化の歴史の史跡を見に行ったのである。……


秋山陽一郎「戦国時代の書籍移動の痕跡」

これまで再三述べてきたように、書籍に使用される汎用書写媒体の簡牘や縑帛は、有機物であるがゆえに腐食しやすく遺りづらい。現存しているものは一部の例外を除き、極度に乾燥している西域か、逆に極度に湿潤な華南地域から出土のものに限られる。特に最古級である戦国時代の写本は、ほぼ楚地からの出土品に限定される。これでは楚地以外、特に文化の中心地である中原地方の書籍や写本の状況は半永久的に不明のまま——であるかのように思われた。

ところが、楚地から出土した簡牘の中に、北方中原由来の写本や伝本が紛れていることが、近年の研究で明らかになってきた。発見の鍵になったのは「用字」習慣である。

戦国時代の地域ごとの字形差は意外と小さかった?

用字の説明に入る前に、前提としてまず始皇帝の文字統一についておさらいしておこう。

おそらく読者諸兄姉の大半は今も同じ認識かと思うが、二十一世紀初頭くらいまで、秦の始皇帝の文字統一は、地域ごとに多様だとされていた戦国時代の文字の字形を、秦の字形に統一したものだと思われていた。世界史の教科書や資料集で目にする「馬」字の事例がその典型といえる(図1)。

ところが戦国時代の筆写文字の出土例が増えるにつれ、「馬」字のような地域ごとに大きく字形が異なる文字は意外に少なく、逆に大半の文字の字形が中国全域で共通していたことがわかってきた。

秦では秦篆(小篆)が用いられたのに対し、秦以外の斉・楚・趙・魏・韓・燕の六国で行われた戦国時代の文字は、古く前漢の頃からひと括りに「六国古文」あるいは単に「古文」と呼ばれた。二十世紀中は戦国時代の筆写文字の事例がまだ少なかったことにより、この六国古文の実態がよくわかっていなかった。そのため、統一秦より前の戦国時代の文字は地域ごとに字形が異なっていたと理解されていた。こうした始皇帝の文字統一前にあったと考えられていた字形の多様性のことは後漢の許慎の『説文解字』序に依って一般に「文字異形」と呼ばれている。……


山田崇仁「河南省調査旅行記(その2)」

ずいぶん間が開いてしまったが、河南調査旅行記の2回目である。

■3日目

●再び安陽から鄭州へ

さて三日目である。

本日は、安陽を早々に立って再び鄭州に戻る。そして、鄭州博物館を見学した後、鄭州商城跡を見学する予定が組まれていた。

起床後、荷物をまとめてホテルをチェックアウトする。私は、集合時間を間違えて早めにチェックアウトしてしまったため、朝食を食べ損なってしまった(とりあえず、日本から持参した行動食で乗り切ることになった)。今回の中国行では、ついにホテルの朝食を食べる機会が無かったのが残念である(そのため、二日目にホテルが朝食を打包(食事を持ち帰り用に別途詰めてもらったもの)してもらったのがとても有り難かった)。

タクシーに分乗して安陽東駅に向かう。行きとは反対側の駅南側道路上で下車し、駅入り口に向かう。前回も書いたように安陽東駅は拡張工事中らしく、あちこちに砂埃が漂ってたイメージが記憶にある。入り口のビニール暖簾?を潜ると、すぐにセキュリティチェックがある。こんなキワの場所にこのような施設を作らざるを得ないことからして、本当に手狭になっているのだろう。チケット受け取りとセキュリティチェックにやや戸惑ったものの、なんとか待合スペースにたどり着く。
適当に時間を潰し、乗車時間が近づいたので改札口に並ぶ。安陽東駅は、鄭州東駅に比べてはるかに小さな駅なので、鄭州東駅のようにホーム毎に乗車ゲートが設けられておらず、日本の地方の駅のように通路入り口に乗車ゲートが設けられている。とりあえず適当な列に並んで自分の番を待ったものの、そこは外国人対応のゲートではなかったため、対応するゲートに並び直す羽目になった。……


 

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