学会情報

中国史史料研究会 会報準備号:試し読み

会報準備号表紙

表紙は祖大寿石坊。


亀田俊和「亀田俊和の台湾通信:第1回

毎年11月3日の文化の日、京都大学文学部日本史学研究室で「読史会大会」と呼ばれるイベントが開催される。これは同研究室の同窓会的組織である読史会の行事で、若手の大学院生から大家の名誉教授に至る数名が研究報告を行った後、懇親会を開いて旧交を温めるものである。

私は2016年の読史会にも参加し、1次会の懇親会が終了した後、2次会までの合間に歓談していた。そのとき古代史の吉川真司先生に、半ば唐突に「君たち、台湾に住んでみる気はあらへんか?」と尋ねられた。

「え、台湾、ですか???」

「実はな、台湾大学という大学で公募が出ているんや。その気があるんなら、後日募集要項をメールで送るけど、どうや?」

1次会でビールやワインを飲み、すでにほろ酔い気分になっていた私は、正直に言えばそのとき吉川先生のお誘いをあまり本気で受け取っていなかった。ほんの軽い気持ちで承知したことを覚えている。

当時の私の肩書きは、京都大学文学部非常勤講師であった。しかし担当授業は複数の講師によるリレー形式で、実際に授業を行うのは年に1回だけであった。この本業の年収は約8千円。もちろん、これで生活できるわけがない。

幸い2014年頃から継続的に著書執筆の御依頼をいただくようになり、数冊の刊行が続いていた。自身の研究成果を広く社会に公開し、改めて勉強にもなる。そして少しでも経済状況をよくしたいという思いももちろんあった。しかし、現実には貯金はさほど増えなかった。いただいた印税や原稿料は次の著書執筆のための取材旅行費に消え、貯金額を維持するのが精一杯であった。

その他、東進ハイスクールで模試の問題と解説を作成するアルバイトも行っていた。これは、現立教大学文学部准教授の佐藤雄基氏にご紹介いただいた仕事である。メールや校正原稿のやりとりだけであったが、これほど気持ちよく働かせていただいた仕事はなかった。最初はセンター試験の問題を担当したが、やがて京大入試をまかされるようになり、毎回個性的な問題を工夫して考えるのもおもしろかった。しかし、これも年2回だけで、自活できるほどの報酬はもちろんいただけない。

結局、メインの収入は京都大学医学部付属病院駐車場の整理誘導員であった。同僚はさまざまな人生を送ってこられ、人柄の優れた方が多く、心温まる職場であった。清掃・警備など、他の部署の方々とも仲よくさせていただいた。来院した患者さんやお見舞いの方や業者さんに「いつもおつかれさま」とねぎらっていただくこともあり、そういうときは本当にうれしかった。……


佐藤信弥「第29届 中国文字学国際学術研討会参加報告

○学会の概要

台湾の中国文字学会(中国にも同名の学会が存在する)は、年1回国際学術研討会(国際学会)が台湾各地の大学の持ち回りで開催され、文字学(日本語では「漢字学」と訳すべきだろうか)の研究者が「『説文』学及び相関論題」「字様学と俗文字学」「古文字学及び相関論題」「文字学史と歴代字書研究」「漢字教学と資訊相関論題」「その他」の六つの分野に分かれて研究発表を行うほか、研習会(講習会)の開催なども行っている。現在の学会理事長(会長)は東海大学中文系(中国文学科)教授の朱歧祥氏、秘書長(幹事)は逢甲大学中文系助理教授(助理教授は講師と副教授=准教授との間に位置する職位)の余風氏である。朱歧祥氏は台湾の著名な甲骨学者である。

○エントリー

筆者がこの学会の存在を知り、エントリーするきっかけとなったのは、2017年9月に中国の三峡大学で開催された世界漢字学会第5届年会(届は回・次の意)にて朱歧祥氏の勧誘を受けたからである。同氏は国際学会に出席するたびに外国人研究者にエントリーを促しているようである。筆者は同学会より帰国後、学会ホームページより「金文中有関軍功的釐字」(金文中の軍功に関する釐字)のテーマで提要(サマリー)を提出し、提要と論文本文の審査を経て第29届中国文字学国際学術研討会での発表が認められた。

○会場の概要

会場となった国立中央大学は台北市からほど近い桃園市内に位置する。桃園国際空港も同市内にある。名称は民国期に南京で開設された国立中央大学を承けたもので、中国でのその後身にあたる東南大学や南京大学などとの交流もあるようである。

○スケジュール

海外からの参加者については学会開催の前日の5月17日(木)に受付をするよう通知があった。そして18日(金)の午前中から19日(土)の午前中にかけてが学会となり、19日の午後は日帰りでエクスカーション、そして20日(日)までに各自解散というスケジュールである。筆者は20日の解散後に高速鉄道で桃園駅から台北へと移動し、故宮博物院の見学と台北市内の書店巡りをし(もっとも日曜日 ということで閉店している店も多く、はかばかしい成果はなかった)、21日(月)に帰国した。……


綿貫哲郎「興城古城(寧遠城址)紀行

〇はじめに

北京より東北へ約550㎞、万里の長城最東端の山海関から錦州を結ぶ遼西回廊の中間地点、遼寧省興城市に寧遠城址がある。

明宣徳三年(1428)、遼東都指揮使司(明初の遼東地域に設置された軍政機関)の下に寧遠衛が置かれ衛城が築かれた。天啓三年(1623)に袁崇煥が修築し、紅夷砲(ポルトガル製の最新式大砲)十数門を備え付けたが、これは西上する後金(後の清朝)軍を阻むためであった。同六年(1626)、袁崇煥は寧遠城を包囲した後金軍のヌルハチ(清太祖)を撃退(ヌルハチにとって生涯唯一の敗戦であり、敗戦後間もなく死去した)、翌七年(1627)にはヌルハチの後を継いで攻め寄せたホンタイジ(清太宗)を再度退けている。

明代四大古城のひとつに数えられる寧遠城址は、現在では興城古城と呼ばれ中国国内から多くの観光客が訪れている。清朝史・八旗制度研究を専門とする筆者は、近年は興城出身の祖大寿という人物を主な研究対象としている関係で、2010年以降に五度興城を訪れている。一日で見学可能な興城古城の見所について、明清交替期の部分を中心に紹介したい。

〇アクセス

興城古城へのアクセスは、北京駅から興城駅まで快速列車で五時間から八時間、瀋陽駅または瀋陽北駅から四時間弱から五時間程で到着する。巨大な袁崇煥石像が立つ興城駅前広場より興城古城西門まで、徒歩で五分程である。

一方、高速鉄道を利用する場合は、戦後の日本人引揚者送還で知られる「コロ島」こと葫芦島北駅が最寄り駅となる。北京駅から三時間半、瀋陽駅または瀋陽北駅から一時間半程で到着するが、葫芦島北駅から興城市街まで直通バスはないので、駅前に溜まるタクシーを使うとよい。興城古城(南門または東門)まで約四十分、値段は70元くらいである。

〇フリーチケット「通票」を買おう

「通票」とは「パス」または「一日フリーチケット」をいう。有料見学場所では、基本はチケットをその都度購入するが、興城古城では「通票」一枚で城壁・鐘鼓楼・薊遼督師府・文廟・将軍府(張学良の部下、郜汝廉の邸宅)・周宅(民国初期の富豪の邸宅)の六ヶ所(実際は城隍廟を含めた七ヶ所)に入館できる。2015年時点では100元だったが、入口の無人化(QRコード読込みによる自動化)で、2018年11月時点で70元に値下がりしていた。……


平林緑萌「前漢功臣伝抄:はじめに

前漢武帝期の終わり頃におおよその編纂を終えたと考えられている『史記』は、漢建国の功臣たちについて、世家、列伝、表などで顕彰する。

しかし、記述の総体的な多寡や史料的性質にかかわらず(ここでは詳述しないが、『史記』はさまざまな材料を寄せ集めて編纂されている)、よく知られるのは張良、陳平、蕭何、樊噲、韓信といった、一般に通行する「面白い」エピソード──「鴻門の会」のように、その多くは説話的記述である──を持つ人々である。

たとえば、劉邦の古馴染みでもある夏侯嬰は、彭城の戦で敗れ、敗走中に馬車から投げ捨てられた劉邦の子女(のちの恵帝と魯元公主)を拾いあげたエピソードで知られているが、彼の列伝を見てみると、戦車部隊長として果敢に戦場に在ったことも記述されている。

夏侯嬰の列伝もまた、さまざまな来歴を持つ史料を組み合わせて編纂されたものと思しいが、『史記』の他の箇所には見えない「以兵車趣攻戦疾(いま仮に「兵車を以て趣かに攻め戦うこと疾し」と訓じる)」という定型表現が四度登場することが注目される。

この定型表現とともに必ず軍功を記し、「賜爵◯◯」と賜爵について述べられることから、当該部分の原史料は一種の「軍功記録」とでもいうべきものであったと考えうるだろう。

從擊秦軍碭東、攻濟陽、下戶牖、破李由軍雍丘下。以兵⾞趣攻戰疾、賜爵執帛。

常以太僕奉⾞從擊章邯軍東阿・濮陽下。以兵⾞趣攻戰疾、破之、賜爵執珪。

因復常奉⾞從擊秦軍雒陽東。以兵⾞趣攻戰疾、賜爵封轉為滕公。

因復奉⾞從攻南陽、戰於藍⽥・芷陽。以兵⾞趣攻戰疾、⾄霸上。……漢王賜嬰爵列侯、號昭平侯、復爲太僕。

……


池田修太郎「岡本隆司『近代日本の中国観:石橋湛山・内藤湖南から谷川道雄まで』

岡本隆司『近代日本の中国観 石橋湛山・内藤湖南から谷川道雄まで』は、「日本人がどのように中国を理解してきたか」という問題について、日中の相互理解の困難さと必要性を訴え続けてきた著者が、「日本人の中国観のありようを考えてみたい、という年来の素志」に基づき、講談社のPR誌『本』における連載をまとめたものである。まずはその構成を下に示そう。

  • はじめに
  • 第一章 石橋湛山:小日本主義と中国社会
  • 第二章 矢野仁一:王道政治と中国社会
  • 第三章 内藤湖南:「近世」論と中国社会
  • 第四章 橘樸:「ギルド」と中国社会
  • 第五章 時代区分論争
  • むすび:日本人のまなざし
  • 文献案内
  • あとがき
  • 関連年表
  • 人名索引

本書は「中国をみつめつづけた先人のまなざしをふりかえりながら」、「いま現在の中国理解をいっそう深める」ために、各章につきひとりの言説を取り上げて議論を展開していく形式を取っている。その中心となるのは、取り上げられた各人の中国社会に対するまなざしである。第一章から第四章までの副題に「中国社会」が含まれているように、著者は各章で取り上げる人物、あるいはその周辺が中国社会に対してどのような見解を有していたかを徹底的に掘り下げ、そこから日本人の中国への「まなざし」を浮かび上がらせようとするのである。第五章についても、「時代区分論争」という論争自体が、中国社会をどのように評価するかという問題と密接に関わっていたことを示しながら論が進められており、論述のスタンスは一貫している。

こうした前提の上で著者がまず取り上げるのは石橋湛山である。著者は石橋の言説が現代において極めて高い評価を受けているとしたうえで、その言説が「明快で説得力に富んでい」ながらも、「中国に対する内在的な考察を欠き、論理矛盾を抱えたために説得力を持たなかった」と喝破する。そのうえで、「当時の輿論を指導、代表」していたのが、「支那通」と呼ばれる「中国問題にくわしい専門家」たちであったことを指摘する。

そうした「支那通」の代表として登場するのが東洋史家・矢野仁一である。莫大な著作をものし、中国を「動く支那」と「動かざる支那」の二層、すなわち「士」と「庶」に乖離した社会と表現した矢野の言説について、著者は中国の「愛国心」、あるいは中国社会のありように対するまなざしから、矢野の言説が「石橋の言説と好対照をなす」と評した。……


佐藤信弥「中国時代劇の世界:第1回『昭王〜大秦帝国の夜明け〜』

2017年放映・配信。原題は『大秦帝国之崛起』。孫皓暉による歴史小説『大秦帝国』6部作のドラマ版第3部となる。本シリーズは商鞅の変法から秦による統一、秦帝国の崩壊までを描く。本作では始皇帝の曽祖父昭襄王の時代を描く。第1部『大秦帝国』(原題『大秦帝国之裂変』)は原作者孫皓暉が脚本を担当したことで話題となったが、本作では第2部『大秦帝国 縦横=強国への道=』(原題『大秦帝国之縦横』)に引き続いて丁黒監督、張建偉脚本のコンビで制作された。話数はテレビ放映版全34話、ネット配信版全40話、日本語版全38話とばらつきがある。

本シリーズでは第1部では秦の孝公と商鞅、第2部では秦の恵文王と張儀という具合に秦の君主とブレーンが主役となって二人三脚で秦国の政治・軍事を担い、それにヒロインが花を添えるという構図になっているが、本作では張博演じる秦の昭襄王(作中では嬴稷の名で呼ばれる)に対して、そのブレーンとなる存在が見当たらない。その役にあたるべき范雎(張禄)は、知謀はあるが人格低劣な小人物として描かれ、魏冉は権勢を誇り、甥の昭襄王から煙たがられる存在である。強いて言えば白起がその役回りということになるだろうか。本作はヒロインにあたる存在も影が薄く、やはり強いて言えば寧静演じる昭襄王の母、宣太后が第2部から引き続いてその役回りを担っているということになるだろうか。

第1部は正統派の大河ドラマという雰囲気だったが、第2部以降はシニカルさや露悪性がめだつ作風となっている。それでも第2部はエキセントリックな演技が印象的な富大龍演じる恵文王と、コメディ俳優の喻恩泰演じる張儀のコミカルなコンビが「毒」を中和していたが、本作ではそのような中和剤すらなく、露悪性がストレートに視聴者に直撃する。

登場人物も基本的に利己的な人物として描かれる。たとえば孟嘗君。昭襄王は母方の叔父の魏冉を牽制するために、国際的に威信を持つ斉の孟嘗君を丞相として迎え入れる。しかしその孟嘗君も一皮剥けば、昭襄王に差し出された文書に自分の誹謗中傷が書かれているのではないかと気になってたまらず、夜な夜な食客に盗ませるような俗物であった。この竹簡の一件は実は孟嘗君の本性を暴き出して息子に見せつけようとする宣太后の仕掛けた罠だったというオチとなる。この一件で秦に居づらくなった孟嘗君は、有名な「鶏鳴狗盗」の話を挟んで斉へととんぼ返りしてあっという間に重臣へと返り咲き、諸国と結んで秦へと攻め込み、自分を登用した昭襄王の面子を潰すのも厭わない。孟嘗君だけでなく戦国四君全員がこんな調子で描かれている。……


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