学会情報

中国史史料研究会 会報第24号:試し読み

表紙は六和塔(中国・浙江省杭州市)。


赤坂恒明「苟且図存(かりそめに存を図らんとせば)―内モンゴル大学における一日本人モンゴル史研究者の教育活動―(一一)」

粗忽の極みでフフホト往復の航空券を購入してしまいました私に対し、3月21日深更、ボヤンデルゲル教授の意を受けた包文勝先生から、直ちに回答が届きました。すなわち、ボヤンデルゲル先生によると、「あなたが今フフホトに来る必要はなく、我々は学校とまだ交渉の最中であり、最終結果はまだ出ていない」との由です。

そこで、翌日午前、あらためて包文勝先生に陳謝メールを送りましたところ、20分も経たないうちに回答が到りました。

すでに3月25日にフフホトに来る航空券を購入した以上は、どうぞフフホトに来てください。学校の会議は3月30日より前に開かれます。あなたが内モンゴル大学に来て仕事をするのは問題ないでしょう。フフホトに数日滞在して、大学院生に「テュルク語入門」を講義するのは如何ですか?

旅路が順調でありますように!

このように、たいへんな御配慮をたまわりました次第です。

今回のフフホト滞在期間は、ビザ不要の15日間です。二週間足らずの期間で可能な講義ということで、「突厥語入門─從歴史学的視座」(テュルク語入門―歴史学の視点から)と銘打ち、主にテュルク語史料の概観と研究状況、特に、モンゴル学研究との関連について講ずることにいたしました。

一方、就職の手続きにつきましては、大学の人事部長が北京に入院中で署名を得ることができず、そのために書類がまだ整っていない、ということです。

それはともかく、このたびの旅程は、次のとおりです。

  • 2018/03/25
    CA182
    東京羽田 13:55発  北京 16:45着
    CA1101
    北京 20:00発  フフホト 21:30着
  • 2018/04/08
    CA1104
    フフホト 9:00発  北京 10:25着
    CA167
    北京 12:50発  東京羽田 17:25着

時間的に無理のない、最も理想的な旅程です。……


亀田俊和「亀田俊和の台湾通信 第25回」

昨年の新暦大晦日は、阿里山に行った。阿里山で新年の初日の出を見るというツアーがあると聞いたので、それに参加したのである。今回は、その旅行記を書いてみたい。

阿里山は、京都に同名の台湾料理店があるので、以前からその名は知っていた。紹興酒が印象に残っている。しかし、まさか自分が実際にその地に行くことになるとは夢にも思っていなかった。

まず、電車で嘉義まで行った。嘉義は、以前紹介した『KANO 1931海の向こうの甲子園』(2014年)の舞台となった都市である。この映画についておさらいすると、この地の農林学校の野球部が、日本人・漢人・原住民の混成チームとして昭和6年(1931)の甲子園で大活躍し、準優勝した話である。

嘉義市は、人口約27万人。日本の地方の県庁所在地に似ている。この時点で、私が今まで行ったことのある世界最南端を更新した。
嘉義は当然のごとく、台北よりも暖かかった。日本の4月のような、春のにおいが漂っていた。ホテルにチェックインし、夕食を食べてから紅白歌合戦を見た。台湾のホテルでも、ほぼ必ずNHKを見ることができる。

それから、いよいよ阿里山へ。駅のそばにある旅行社に向かった。場所は既に夕方に下見済みである。参加者は3台のバスに分乗して現地へ向かった。私は3台目のバスで、40人ほどが乗っていた。台湾の人は、本当に旅行が好きである。
今回のツアーは、以下のような段取りであった。阿里山についてからは、森林鉄道に乗る。この森林鉄道は日本統治時代に建設されたものである。阿里山は緑豊かな森林地帯で、良質なヒノキの木材が多数取れるので、その木材を運搬するために作られたそうである。明治神宮の大鳥居も阿里山のヒノキでできているという。そして現在も、この鉄道は観光用として運行しているのである。ご来光を拝んでから、ガイドの案内で山道を歩き、ヒノキの神木を見る。そして嘉義市に戻る。その途中レストランで昼食を食べ、嘉義市を少し観光して終了。

まずは順調に森林鉄道の駅に着いた。標高は2000メートルを超えており、おそらく世界最高端も更新した。私の記憶が確かなら、今までの最高端は鳥取県の大山である(標高1,729メートル)。駅には他のツアー客も大勢いた。本当に人がたくさんいて、阿里山は人気があるんだなと驚いた。……


山田 崇仁「中国古代史研究入門(その7)」

■はじめに

ここまで、筆者が中国上古史について、授業で実際にとりあげた内容をベースに何編かに分けて書いてきた。2023年度からは、大学院生を対象とした科目を担当している。そこでは、受講生の専門が筆者とは必ずしも同じではないために、受講生の専門に近い研究者の著作を読みながら、書籍や論文がどのような資料や見解を下敷きに記述されているのかを中心にしている。

そのため、この連載も今回を一区切りとすることにした。

最後に、中国上古史をより深く学びたい方のために、日本語で読める書籍(一般書から専門書よりもやや一般書向けに書かれたもの)を紹介することにしたい。

■概説で全体の傾向を知る

まずは教科書から
上古は、殷から初めても、始皇帝の天下統一まで1000年以上の期間がある。中華文明の第一王朝と見なされる二里頭文化を含めると、千数百年と更に伸びる。その期間を対象に学ぶのは中々にハードルが高い。そのために、まずは概説から読み進め、時代の概要をつかむ必要がある。

おすすめは、高校の世界史Bの教科書である。中国上古史に関する分量は全体の僅かな部分だが、簡にして要を得た記述は、長年練り上げられた貫禄すらある。一般に教科書の記述は、歴史学研究の中で一定の支持を得た研究成果を踏まえたものであり、必ずしも最先端の研究成果を反映したものではない。しかし、上述のように簡にして要を得た記述は、それまでの研究から導き出されたスタンダードな内容であり、まずここから学ぶことで、現在の標準的な見解を知ることができる。そのようなスタートラインとしての基盤を作る上で、教科書の記述は非常にためになる。

教科書は、教科書取り扱い書店に注文するか、各出版社から購入可能な場合もある。また、山川出版社のように、教科書をベースにした一般書を出版しているところもある。

  • 木村靖二(編)・岸本美緒(編)・小松久男(編)『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年)
  • 木村靖二(編)・岸本美緒(編)・小松久男(編)『もういちど読む 山川世界史PLUS アジア編』(山川出版社、2022年)

平林 緑萌「「鉅子」并「子墨子」考」

●序言

『墨子』は開祖である墨翟について「子墨子」の称謂を用いる。
この称謂については、①筆者の師に用いる尊称とする伝統的注釈があるが、いっぽうで②「鉅子墨子」の略称であるという説が唱えられている(20世紀までのおもな先行研究については渡辺卓1973、浅野裕一1998を参照)。
たとえば、人名辞典には下記のような記述も見られる。

(……)墨家集団の統率者は鉅子と称されたが,墨子は子墨子と呼ばれ,これは鉅子墨子の省略形と思われるから,墨子は初代の鉅子であったと考えられる.(岩波書店『岩波 世界人名大辞典』、2013年)

レファレンスのための書籍としてはいささか踏み込みすぎの感もあるが、②を採用した記述がなされている(執筆者一覧に浅野氏の名が見えることと無縁ではなかろう)。
さて、②の場合「鉅子」は墨家全体のリーダーであることになるが、果たして史料に基づいてその見解が妥当であることを導けるであろうか。
また、①について言えば、『論語』はもっぱら孔子を「子」とのみ称し、『孟子』は「孟子」である。「姓+子」は他の諸子書にもみられる一般的な傾向であって、なぜ墨子が「子墨子」であったのかを説明し得ない。
本稿では、かような問題意識のもとに「鉅子」について再検討するとともに、墨家以外のテキストで「子×子」の称謂が用いられている例を検討することで、「子×子」称謂の性質を明らかにする。

●「鉅子」について

まずは浅野裕一が唱える「鉅子墨子」略称説について検討するが、そもそも、墨家集団のリーダーであるとされる「鉅子」の具体的な人名は、『呂氏春秋』にしか見られない。

墨者有鉅子腹䵍、居秦、其子殺人(……)(去私篇)

墨者鉅子孟勝、善荊之陽城君。(……)孟勝曰「不然。吾於陽城君也、非師則友也、非友則臣也。(……)我将属鉅子於宋之田襄子。田襄子賢者也、何患墨者之絶世也」。(上徳篇)

鉅子として上記に見える三名のうち、孟勝は楚地の封君と関連し、孟勝から鉅子の地位を継いだという田襄子の居地は宋とされる。
また、腹䵍は恵文王期に秦にあったことが明言されるが、彼が鉅子の終見である。……


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