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学会情報
10.252019
中国史史料研究会 会報第3号:試し読み
表紙は襄陽市の諸葛亮像。
満田剛「東京富士美術館『大三国志展』の思い出:東京国立博物館『特別展 三国志』に寄せて」
今回の東京国立博物館での『特別展三国志』のポスターに掲載された新郷市博物館所蔵の「関羽像」(以下、展示品の名称は『特別展 三国志』での表記に基づくものとする)をはじめて拝見した時、「本当に、出世したものだな」と感無量であった。
さらに、SNSやブログ記事で『特別展 三国志』に関する投稿を見ていると、この「関羽像」の写真が多数登場していたことに加え、「関羽の像、写真スポットに 三国志展が20万人突破」(『朝日新聞デジタル』、2019年8月27日付、https://www.asahi.com/articles/ASM8Q4V5HM8QUKJH004.html 閲覧日:2019年10月24日)と題する記事において、
今回公開されているのは、新郷市博物館が所蔵する青銅製で、ほぼ等身大。世に伝わるもののうち屈指の「美関羽」と評される。
と紹介され、来場者20万人突破セレモニーの際の記念品として、この「関羽像」のポリストーン製フィギュアがプレゼントされたと記されているのを読んだ時、「この「関羽像」が『特別展 三国志』のアイコン(象徴)となっているのだな」と改めて感慨深いものがあった。
筆者は2008年から2009年にかけて、東京富士美術館をはじめとする、全国七か所の会場で開催された『大三国志展』に「学術アドバイザー」の肩書で参加し、展示全体や図録の監修を担当していた。
日本国内での『大三国志展』は全国7ヶ所で101万人以上の来場者を集め、大盛況のうちに終了した後、2009年4月以降、約1年をかけて、凱旋展のような形で上海・武漢・杭州・北京・鄭州・台北・成都の各都市において中国版『大三国志展』が開催された。
筆者は2010年6月から9月に開催された台北の國立歷史博物館での『大三國特展』の図録を個人的に手に入れたところ、その表紙には今回の『特別展 三国志』のポスターと同様に「関羽像」の写真が掲載されていた。その図録を東京富士美術館に持参し、『大三国志展』を担当された学芸員の方にお見せしたところ、学芸員の方から真っ先に出てきた言葉が「出世したなあ」であった。その学芸員氏によると、驚くべきことに「新郷市博物館で最初に見た時は、床に倒されていて、ホコリをかぶっていたんですよ」とのことであった。……
亀田俊和「亀田俊和の台湾通信 第4回」
……こうして事務的な手続きを進めて天命を待つ一方、もう1つの懸案事項を解決する必要があった。中公新書の件である。台湾大学に採用されると、要領の悪い私はこの本を執筆することができなくなってしまうので、何としても日本にいるうちに完成させなければならなかった。
私は、当初からこの本のテーマを観応の擾乱にしようと考えていた。よく誤解されるが、呉座勇一『応仁の乱』(中央公論新社、2016年)が大ヒットしたので二番煎じを狙ったのではない(それは『観応の擾乱』のあとがきにもきちんと書いたのだが……)。ただし、『高一族と南北朝内乱』(戎光祥出版、2016年)・『足利直義』(ミネルヴァ書房、同年)・『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版、2017年)と、他社から依頼された著書の執筆に追われていたので、開始がここまで遅れたのである。また担当編集の上林達也氏が、応仁の乱以上にマイナーな戦乱である観応の擾乱をタイトルに据えることに、当初難色を示していたことも確かである(このこと自体が、二番煎じなどではない何よりの証左であるが)。しかし結局、観応の擾乱が採用され、また事情を話して刊行も急いでいただけることとなった。
こうして、この時期は時間の大半を『観応の擾乱』の執筆に費やすこととなった。本書のあとがきにも書いたように、この乱に興味を持ち始めたのは高校時代に遡る。ある意味、この乱の謎を解き明かすために大学院に進学して日本史の勉強を続けてきたようなものである。何を書けばよいかわからなくて困るようなことはまったくなかった。とにかく夢中になって書き続けた。疲れたら、私の人生の唯一の楽しみであるYouTubeのアイドル動画を見て癒やされた。……
牛根靖裕「元代劉黑馬家族墓(下)」
■墓誌と『元史』列伝の内容の相異
墓の中に置かれる墓誌や、墓地の祭祀の場に立てられた神道碑などの石刻資料は、正史の列伝とは文章の用途や作成時期が異なるため、しばしば列伝にはない情報を提示してくれることがある伝記資料である。たとえば、血縁情報や有力者同士の婚姻などの人間関係が挙げられる。また墓誌等で敢えて言及しないことによって、作文あるいは刻石のタイミングで公言し難いことは何かを、暗に示してくれる。
『発掘報告』では、墓誌についてそれぞれ出土状況・寸法などの概略、拓本、録文(書かれている文字を書き写したもの)を載せ、その後に墓誌の文章から得られた情報を列挙する。劉黒馬墓誌については、最も多く7点を挙げ、劉黒馬の妻妾たち、死去・埋葬した年月日、葬地の名、墓誌の撰者(駱天驤)、宋将劉整が投降した状況など新たな情報が得られるが、劉氏の出自、劉黒馬の諱、父母、経歴、子孫の数などは「劉伯林伝」とは異なっていた。
劉氏の出自について、「劉伯林伝」は山東地方の済南の出身とするが、墓誌では、
本耶律徳光之後。金朝改耶律為移剌、又改移剌為劉姓、失其家譜、難考其詳。自祖伯林居西京威寧県、以為威寧人。
と、済南との関わりには触れずに、契丹の太宗皇帝、耶律徳光の末裔であるといいつつ、家譜が失われたので証明は難しいと嘯いている。彼らが本当に契丹皇族に連なるのか、それとも当時の墓誌等にしばしば見られた見栄なのかは断定できないが、他の墓誌もそろって自分たちの本籍は威寧であるとする。
また「劉伯林伝」では、劉伯林と劉黒馬を歳の離れた親子として記すが、劉黒馬墓誌・劉元振墓誌・劉天与墓誌では一致して、劉黒馬は劉伯林の子の劉時と康氏の子とする。実際には祖父と孫だったようである。劉元振墓誌と劉天与墓誌によると、1221年の劉伯林没後、一旦は劉時が継いだものの、まもなく劉時も亡くなってしまったため、若い劉黒馬がその地位を継いだと記されている。
劉黒馬の諱については、「劉伯林伝」、劉元振墓誌、劉天与墓誌は劉黒馬の諱を「嶷」とするが、劉黒馬墓誌は「黒馬」が諱であると語っている。『元史』では「生まれた時、家にいた白馬が黒駒を生んだので、小字(幼い時の呼び名)としていたら、その名が通行した」というエピソードを紹介しているが、本人の墓誌で小字を諱と誤るというのは、奇妙である。
そして劉黒馬の経歴は、「劉伯林伝」と比較すると各事績のあった年の干支が異なり、さらに墓誌は不自然なほど、オゴデイ、グユク、モンケ時代のことを語らない。オゴデイに謁見して「都総管万戸」を授けられた年を、墓誌は庚子(1240年)とするが、「劉伯林伝」は辛丑(1241年)とし、没年を墓誌は中統二年(1261年)12月21日とするが、「劉伯林伝」は中統三年として、双方ともに63歳であったと書かれている。墓誌では必ず言及する子の人数も、墓誌は14人とするが、「劉伯林伝」は12人と少なくなっている。
このようにいくつもの相違が見られることから、劉黒馬墓誌と「劉伯林伝」はそれぞれ情報源が異なっていたと想定できる。一族内でも次第に家ごとの事情が生じて分かれ、やがて各々が別の家伝をつくった結果、同じ人物・家に関する伝記なのに異なる出自や事績などが記され、列伝が編まれた際に別の家、別人のように複数の列伝に表れることもある(松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団」上・下, 『国際研究論叢』5-2, 5-3・4, 大阪国際大学, 1992~1993年)。劉氏にも別系統の伝記資料があったのだろう。……
野澤亮「『新☆再生縁』読後記」
滝口琳々先生の長編少女漫画『新☆再生縁――明王朝宮廷物語』(プリンセスコミックス、秋田書店)は11巻を以て完結した。11巻が刊行されたのが2018年の12月であるから、1年弱経つことになる。
私は中学時分の『プリンセス・ゴールド』誌2009年11+12月号の第1話掲載時から愛読していた。隔月掲載のため、物語のつづきがどうなるのか気になる事もひとしおであった。途中の休載期間では、かなり気をもんだものだ。ただ、悲しいことに雑誌やコミックスを、手銭で買おうにも親に養われる部屋住みの身で、どちらも所有すること能わず。借りるか、立ち読みか、国会図書館に出向くかして読んだものであった。やっと自分で買えたのは就職してからである。それも最終巻のみであった。全巻買おうにも如何せん軍資金も足りない。
さて、この『新☆再生縁』、原作は清代の全20巻の弾詞小説で、乾隆年間に生きた女性文学者の陳端生が17巻まで書き、未完のまま死去。後の3巻を杭州の女流詩人・梁徳縄が書いた。中国でも何度か映像化されているそうだ。原作は元朝を舞台にしているが、副題に「明王朝宮廷物語」とあり、漫画の舞台は明代である。これは滝口先生曰く、元朝では作画の資料が少ない。しかもモンゴル人が支配していた時代だから辮髪で、少女漫画的には厳しいかもとのことである。そこで、時代設定を明の成化年間(1465~1487年)にして、それ故にタイトルには「新」がついている。
簡単にあらすじを説明する。頃は明の成化年間、孟麗君という美少女が宮中に囚われた父を救うため、男装して酈君玉と名を変える。科挙に見事合格した彼女は官僚となり、想いを寄せる皇太子・朱祐堂を補佐し、その政敵・萬貴妃一派に立向かうというものだ。これに、科挙で状元(首席合格)の座を奪われたために君玉(=麗君)をライバル視する劉奎璧、幼少期はデブでのろまだったのが一転して別人のような美青年となって麗君の前に姿を現す婚約者の皇甫少華、麗君に好意を寄せる皇太子の近侍呉蓮英と、まさに明王朝版イケメンパラダイスのような趣きである。彼らのほかにも美少年好きの皇帝に手籠めにされかけたり、あやしげな道士の李孜省に邪恋を抱かれたりなど、ややこしい色恋模様が絡むわけだ。……
佐藤信弥「中国時代劇の世界 第4回『天意』」
2018年に優酷(YOUKU)オリジナルドラマとして配信。全46話の本編が配信された後、外伝&本編の後日談にあたる『天意 超能篇』全9話が配信された。2019年10月現在、日本語版はリリースされていない。
内容は銭莉芳による同名の小説をドラマ化したものである。話は秦の時代から始まる。始皇帝は淮陰から差し出されてきた美少女の季姜を我が物にしようするが、彼女は幼馴染みの韓信以外には嫁ぐ気はないと宮中で抵抗のすえに自害。始皇帝は彼女を皇妃の待遇で自らの陵墓に陪葬させることにする。
舞台が変わって現代の上海。ヒロインである売れない女性SF作家銭小芳は、歩きスマホの最中に車にはねられたと思ったら、秦の時代の季姜として転生していた。なぜか山賊の一味として墓泥棒をしていた蕭何に助けられ、本作の主役である韓信とも出会うことになる。小芳は韓信や蕭何のほか、張良・項羽・虞姫といった楚漢戦争の英傑たちと行動をともにすることになるが……
と、ここまで書けば中国でよくあるタイムスリップ物ということになるが、ここに更に異星人という要素が加わってくる。実は小芳が転生した世界では、太古の昔に地球に飛来して不時着した地球外生命体女羲が「神」として君臨し、人類の歴史を影から操っていたのだった。彼女は故郷に帰るために、自らの乗り物を修復する力を持つ英雄を捜し求めている。彼女の忠実な僕である滄海客は、「神の使者」として英雄の資質を持つ人物と接触し、「天意」をちらつかせ、彼らに大いなる力を与えてきたのだった。始皇帝や韓信・張良・項羽・劉邦といった面々は、女羲を助ける英雄候補ということになる。
「滄海客」というネーミングでピンときた方もおられるだろうが、彼(あるいは彼女。性別ははっきりしない)は張良による博浪沙での始皇帝暗殺計画において、倉海君の役回りを担っている。ただ、『史記』では倉海君は鉄槌を投げる力士を紹介したことになっているが、このドラマでは「曳影剣」という兵器を授ける。ビームが発射されるバズーカ砲である。
女羲は自らの目的を達成するためには、人類の文明発達に過度に干渉して歴史を改変することなど何とも思っていない。女羲の設定は、藤崎竜によるコミック『封神演義』の女媧の設定に影響を受けたものかもしれない。同作でも女媧は異星人であり、人類の歴史を操る存在であるという設定になっていた。そのネーミングは女媧及び、やはり藤崎版『封神演義』に登場する伏羲に由来する。
広中一成「満洲人物伝 第2回 黄慕将軍の活躍:荒木五郎」
放浪の末に中国へ渡る
1916年、中国で強力な軍事力を背景に独裁体制を築いていた北洋軍閥の袁世凱が亡くなりました。袁の死後、後継者の座をめぐって配下の段祺瑞と馮国璋が派を二分して争うと、中国各地の軍閥も勢力拡張のため覇を競います。まるで三国志のようなこの軍閥騒乱の時代は、1928年に蔣介石率いる国民政府が中国を統一するまで続きました。
それら軍閥は、各々の軍事力を強化するため、諸外国から提供された借款をもとに装備を近代化させ、さらに、将校教育や作戦を指導する軍事顧問を雇用しました。今回取り上げる荒木五郎は、張作霖をリーダーとする奉天軍閥で活躍した軍事顧問のひとりです。荒木とはいかなる人物だったのでしょうか。
荒木は、1894年1月、日本陸軍主計少将小倉美佐雄の三男として出生し、幼くして母方の荒木伝兵衛の養子となります。実父と同じく陸軍軍人の道を進み、1915年5月、第27期生として陸軍士官学校を卒業し、砲兵として名古屋砲兵第三連隊に配属されました。
それから2年後の1917年、荒木はアジアの解放を目指して、仲間数人とアメリカ植民地下のフィリピンで武装蜂起を共謀します。しかし、実行前に東京に出てきたところを憲兵に見つかり計画が露見。荒木は逮捕を免れましたが、責任をとって退役します。
陸軍軍人から一転、無職となった荒木は、行くあてもなく東京市内を放浪。そのことを知り、見るにみかねた荒木の実兄は、縁のあった川崎造船所社長松方幸次郎に荒木を紹介します。松方は第6代内閣総理大臣松方正義の三男で、1896年川崎造船所社長に就任し、他分野に進出して「松方コンツェルン」と呼ばれる一大企業グループを作り上げた人物でした。
荒木が松方を紹介された頃、川崎造船所は中国で鉱山経営に乗り出したばかりでした。松方は、中国のより確かな情報を得るため、大陸浪人気質の荒木に中国を見聞して回るよう命じます。荒木は松方から手当てをもらうと、さっそく船に乗り、まずは天津へと向かいました。
平林緑萌「前漢功臣伝抄 第3回 劉信:劉邦に嫌われた甥」
■劉邦の一族
今回は、劉邦の長兄・劉伯の子である劉信と、それをとりまく劉氏一族の関係性について取りあつかう。
これまでにも劉邦の一族については何度か触れたが、改めてその概略を記しておきたい。
まず、劉邦の父はいわゆる劉太公であり、劉邦即位ののちは太上皇帝となった。ただし、劉邦の活動が記録され始める以前の彼の履歴についてはほとんど何もわからず、諱も伝わらない。かつては劉氏も楚人とされたが、現在では沛豊のあたりは魏人によって建設された邑であるという見解が有力である。劉家は自作農であったようだが、劉太公は魏人のアイデンティティを持っていたかもしれない。
その劉太公は、『史記』に伝わる限り劉邦を含め五人の子をもうけている。長兄が劉伯、次兄が劉仲(諱は喜)、のちに宣夫人と諡される女子(事績は伝わらない)、劉季こと劉邦(この四人は劉媼との子)、そして母を異にする劉交である。
劉伯は早くに没したが、後家となった夫人と、遺児として今回の主人公・劉信が家にあった。劉仲が妻を娶った時期は分明でなく、劉交の母についてもよくわからない。
よって、劉邦の若い頃に劉家にあったのは、劉伯の妻を含め六人であったとひとまず仮定しておこう。劉邦は生業に熱心でなく、劉伯が没していたため、一家の主要な働き手は次兄の劉仲であったとおぼしいが、これについては傍証もあるので後述する。
さて、ほかに近い男系親族としては父方の従兄である劉賈がいる。また、よく知られるように、劉邦は呂后とのあいだにのちの恵帝と魯元公主をもうけているが、これはまだのちのことである。
ゆえに、妻方の呂氏を除いて見てみると、父系の近い一族で確認できる同世代の人物は、劉仲、劉交、劉賈のたった三人に過ぎないことになる。もっとも、呂氏を足したとしても五指に足るかどうかどうかという具合であるから、やはり一族の規模としてかなり貧弱であったと考えるべきなのであろう。
初回にとりあげた奚涓のような人物が引き立てられる背景として、劉氏の人材不足は明らかであったというべきだろう。
秋山陽一郎「多漢字入力入門」
中国史の史料で漢字を使いこなす
いまやすっかり中国史の史料をPC・Mac・スマホ・タブレットといった情報端末で扱えるのが当たり前になった感があるが、つい20年前にはさまざまな裏技を駆使しないと考えられなかったことである。とはいえ、今でも不案内な者にとって、情報端末で中国史の史料を扱う上での大前提――すなわち漢字の読み(出力)・書き(入力)は敷居が高い。このガイドでは、そのノウハウを、開拓者たちが構築した資産を利用しつつ、紹介していこうと思う。
花園明朝(漢字の出力)
まずは漢字の出力(ここでは画面に表示したり、紙に印刷できるようにすること)から。出力が先。入力は後。この順番はとても大事だ。入力している文字が画面上で見えなければ、正しく入力できているか確認しようがないからである。
出力に使うフォントは「花園明朝」。後述のGlyphWikiベースで開発されている、88,884字の漢字と異体字(IVD)8,828字を収録したフリー(自由な)フォントである。開発者は上地宏一氏。
まずは上地氏が運営する fonts.jp の花園フォントのページ(http://fonts.jp/hanazono/)から「花園明朝(HanaMin)」と書かれたリンクをクリックして、ダウンロードページに飛ぼう。
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