学会情報

中国史史料研究会 会報第10号:試し読み

表紙は春節(旧正月)の提灯。


亀田俊和「亀田俊和の台湾通信 第11回」

今回から、中国語の勉強について紹介したい。
私には多くのコンプレックスがあるが、語学もまたそのひとつである。高校時代は、英語が大の苦手教科であった。特にリスニングが全然だめで、毎回赤点を連発して冗談抜きで本当に留年しかけたほどである。単語を覚えるのも、文法問題も大嫌いであった。

「東北地方の人間なのに、なぜ東大ではなく京大に入ったのか?」という質問も、昔はよく受けた。その答えのひとつが、入試問題である。京大の英語の問題は非常にシンプルで、英文和訳と和文英訳しかない。英文和訳だけで全体の3分の2の得点なので、これだけ極めれば十分に合格点に達する。ということで、受験勉強ではリスニングはもちろん完全に無視し、文法問題はセンター試験レベルにとどめ、後はひたすら和訳の練習に専念した。1浪したものの何とか合格でき(ちなみにセンター試験の英語の点数は現役時よりも下がった)、今でも和訳には少しは自信あるが、これでは英語が得意だとは到底言えまい。人格や他の能力と同様、私は英語力もきわめていびつなのである。……


佐藤信弥「2020年秋季オンライン学会参加記」

はじめに

コロナ禍の中で対面形式による学会の開催が困難となった学術団体は、昨春以来オンライン化を模索してきた。無論中国学関係の団体も例外ではない。筆者は2020年11月に中国古文字研究会、東アジア文化交渉学会、日本秦漢史学会大会と、国内外の3つの学会でオンライン発表を行なった。本稿ではこのうち中国の大学が開催校となった中国古文字研究会と東アジア文化交渉学会について、その開催の様子や試みについて報告することにしたい。……


平林緑萌「東洋学の名著 第一回:三田村泰助『宦官 ―側近政治の構造』(中公新書)」

今号より、リレー連載形式で広義の中国関連書の名著を紹介していく。初回となる今回は、刊行より半世紀以上経ってなお現役で読み継がれている、三田村泰助の『宦官』をとりあげる(文中、一部を除き敬称略)。

著者について

本書の著者・三田村泰助は1909(明治42)年の10月9日、福井県南条郡武生町(現越前市)に生まれた。
この年、三田村がのちに研究対象のひとつとする清朝はまさにその最後を迎えつつあった。同年、光緒帝が崩御し(西太后による毒殺が濃厚と言われる)、ラストエンペラー・宣統帝溥儀が即位している。
その溥儀の退位は1912年、紫禁城を追われるのは1924年のことであるから、本書冒頭で橋川時雄の「宦官おぼえ書」を引きながら描写される、470人の宦官たちが泣きながら宮中を去ったのは三田村が15歳のときのことである。
溥儀に代表される清朝の残滓が、なお長く東アジア情勢にある種の残照を投げかけていくことは、読者諸賢もご存知であろうから詳しくは述べない。
ここで注意しておきたいのは、三田村と同世代の研究者たちにとって、本書で述べられる宦官、皇帝、女官、科挙官僚といった存在は、単に遠い過去の史料上の存在というわけではなく、半ば同時代のものだったということである。……


佐藤信弥「中国時代劇の世界 最終回「時代劇の時代」の終わり」

2019年5月発行の創刊準備号から1年半以上にわたって連載してきた本欄も今回で終わりである。「中国時代劇の世界」の最終回にふさわしいテーマということで、「時代劇の時代」の終わりについて語ってみたい。中国語で時代劇のことを「古装劇」、すなわち俳優が古代(ここでは前近代の意)の服装をした劇と呼んでいるが、清末以後の近代化によって人々が古装から次第に「西装」(洋服)へと装いを変えていく中、時代劇の世界の住人はどのような変革を迫られたのだろうか?

コロナ禍に見舞われた2020年は、どういうわけかこの「時代劇の時代」の終わりを意識したような作品が2、3配信・放映された。まずは2020年6月より愛奇芸(IQIYI)で配信された『民初奇人伝』(原題)。全34話構成で、映画監督の陳凱歌監修ということで話題になった。……


平林緑萌「前漢功臣伝抄 第10回 酈商──漢中・巴蜀平定の価値」

■四千人を率い、劉邦に投じる

秦末に各地で起こった反乱は、これまで書いてきたように陳勝から懐王を頂く項梁、そして項羽にいたる盟主たちのもとに兵力が参集していく過程を持った。
懐王政権の一員となった劉邦のもとにもまた、兵を率いて参加するものがあった。
功第六位の酈商もそのひとりであった。

酈商は、碭郡西部に位置する高陽の人である(以下、特に注記しない場合、酈商については『史記』酈商伝に拠る)。
陳勝の反乱が起きた際にどういう身分であったのかは判然としないが、呼応して「少年」を集め、周囲を荒らし回ったという。おそらく、碭郡の西部から、陳郡の最北部にかけてだろう。
陳勝政権は短期間で崩壊するが、このとき秦将・章邯は三川郡から潁川郡を通って陳郡へと軍を進めている(『史記』陳勝世家)。このルート上に位置しなかったため、酈商は自身の軍を温存することができたと思われる。
彼が劉邦に投じる際に率いていたのは四千人であった。手勢の足りない劉邦にとっては、この上なく頼もしい軍勢であっただろう。……


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